かじさんのつれづれなるままに

映画や読書 スポーツ(相撲)についてぼちぼち書き込むブログです

小説『壬生義士伝』 続き

吉村が官軍に立ち向かった理由は、
上巻を読めば分かりました。
吉村の独白でずばり書いてあったのです。

新選組というのは、斎藤一の言葉を借りれば
「武士になりたかった百姓や、生きんがために国を捨てた足軽であり、
冷飯を食わされ、陽も当たらぬ部屋住みのまま朽ちていく御家人の倅たち」
の集まりでした。
そんな人々が何かを変えようとした、不条理の時代を変えようとしたのでした。


わしにはよおく分かっており申した。
みながみな、多かれ少なかれわしと似たりよったりの境遇でござんした。

わしは脱藩者にてござんす。
したどもわしは、おのれの道が不実であるとはどうしても思えねがった。

わしが立ち向かったのは、人の踏むべき道を不実となす、
大いなる不実に対してでござんした。
わしたを賊と決めたすべての方々に物申す。
勤皇も佐幕も士道も忠君も、そんたなつまらぬことはどうでもよい。

(注:このセリフがすごく気に入ったので大文字にしてしまった。)
石をば割って咲かんとする花を、なにゆえ仇とさるるのか。
北風に向かって咲かんとする花を、なにゆえ不実と申さるるのか。
それともおのれらは、貧と賤とを悪と呼ばわるか。
富と貴とを、善なりと唱えなさるのか。
ならばわしは、矜り高き貧と賤とのために戦い申す。
断じて、一歩も退き申さぬ。

    (浅田次郎著 『壬生義士伝』上巻より)

吉村は貧しくとも文句も言わず、守銭奴と蔑まされても
家族のもとにお金を送り続け、いつも温厚で優しい人でした。
その吉村が、世の理不尽に対して怒りを爆発させたかのように感じました。
戦で死ぬことは吉村にとって本意ではありません。
その吉村が、退くことができなかったのです。
自分と似たりよったりの新選組の隊士たちが
「新しい時代の波に押し潰されるように敗れ」ていくのを見て、
退くことができなかったのです。
吉村はただ家族思い、子ども好きだっただけではありませんでした。
おそらく誰に対してでも思いやりがあったのだと思います。
必死に生きている仲間はもちろん、
あらゆる人に対して。
だから、必死に生きる人々を踏みにじる、巨大な力に対して
立ち向かおうとしたのだろうと思います。

吉村さんはええお人です。

映画では吉村の訛りのためにセリフが聞き取れない
ところが多々あったのですが、
活字で読むと、この訛りがいい味なんです。
この訛りと吉村の善良さがぴったり合っています。

上巻を読んだ時点で、私の疑問はほぼ解決しました。
下巻ではさらに物語が深みを増します。
映画をみてもさほどぐっとこなかったシーンが、
活字で読むと涙無しには読むことができませんでした。

映画ではさらりとしか描かれていなかった
近藤、土方、沖田といった面々も、
小説のなかにエピソードが散りばめられていて、
ちゃんと描かれていました。
出番は短いのですが、その短いエピソードの中に
ちゃんとそれぞれの個性が描き出されています。

読みごたえ十分の作品でした。