かじさんのつれづれなるままに

映画や読書 スポーツ(相撲)についてぼちぼち書き込むブログです

壬生義士伝

十日ほどかけて、浅田 次郎氏の
壬生義士伝』(上・下)を読みました。
この小説を読むきっかけとなったのは
映画の『壬生義士伝』を見たことでした。

実は映画を見て、いまひとつ分からなかったのです。
なぜ主人公 吉村貫一郎が「義士」なのかが。
私が鈍いのでありましょうか?
彼がとてもいい人なのは分かるけれど、
斎藤 一が「本物の侍」というほどすごい人なのか
私には分からなかったのです。
それで原作を読むことにしました。

映画で最も分からなかったのは、吉村が官軍に対して
「一天万乗の天皇様に弓引くともりはござらねども、
拙者は義のために戦ばせねばなり申さん」と叫んで
迷いなく突進していったシーンです。

彼の言う「義」とは何だったのでしょう?

吉村が尊皇攘夷などという大義のために戦ったとは
思えません。どちらかというと彼は家族第一主義の人です。
鳥羽伏見の戦いで敗戦濃厚となった時点で、
逃走して家族のもとに帰ってもよかったはずです。
徳川幕府のためなんかに命をかける人とは思えないのに、
なぜあそこで彼は戦ったのでしょうか?
戦うというのなら幕府のために最後まで戦えば筋は通るのですが、
途中で戦場から離れ盛岡蔵屋敷で命乞いをします。
これまた分からない。

彼の根底に一貫してあるものは何なのでしょう?
彼の行動に筋が通っているとしたら、それはどういう筋なのでしょう?
少なくとも、一般的に言われるような
武士道とか面子とかではなさそうです。
吉村という人物は一見「立派な武士」とはかけ離れている人物なのです。
まず、お金にうるさい。
藩を脱藩したのも尊皇攘夷のためでなく、お金に困ったからです。
人からは守銭奴と言われています。
立派な武士ならば普通は「武士は食わねど高楊枝」のはずですが。
とはいえ、吉村が金、金というのも自分のためではなく、
新撰組での給金はすべて国元に送るのですから
彼は相当に家族思いのいい人です。
でも、家族思いのいい人というだけでは
「義士」とまでは言えません。
たしかに吉村の剣の腕前は凄いです。
でもただ単に剣が強いだけでは
「本物の侍」とまでは言えません。
あの斎藤 一が「日本一国と引き替えてでも、この男だけは殺してはならない」
とまで言うほどなのですが、
映画を見ただけではそこまでの男には見えませんでした。
私が鈍いのでしょうか?


この作品では、近藤、土方、沖田らは
当り障りのない程度にしか描かれていないので、
新撰組ファンの人には物足りないかもしれません。
斎藤 一を演じる佐藤浩市がよかったですね。
佐藤浩市大河ドラマでも芹沢 鴨を演じていましたが、
ああいうくせのある人物を演じるのがうまいですね。


つづく