かじさんのつれづれなるままに

映画や読書 スポーツ(相撲)についてぼちぼち書き込むブログです

『HERO(英雄)』

HERO

2002年 中国

かつて、秦の始皇帝を暗殺しようとした最強の三人刺客がいました。
長空(チャンコン) 飛雪(フーシェ) そして残剣(ツァンジェン)。
その三人の刺客を一人の剣士が倒しました。
その名は 無名(ウーミン)。
刺客を倒した褒美として、無名は秦王への謁見を許されます。
その謁見の場で、無名は三人の刺客を倒した顛末を
秦王に語るのでした。

三人の剣士を倒すという話だから当然闘うシーンが多いのですが、
そこに漂うこの静けさは何でしょうか?

例えば最初に倒した刺客は長空ですが、
彼との闘いは雨のそぼ降る囲碁場で行われました。
画面全体がモノトーンで統一され、戦う二人の背後に
老人の奏でる筝の調べが流れています。
何と静けさに満ちた闘いでしょうか。

剣も音楽も
その根は同じ
求めるものは究極の調和


という芸術と武術の奥義がその根底にあります。


さて、飛雪と残剣については三通りの物語があります。
赤バージョン、青バージョン、白バージョンとでも言いましょうか。
(途中で緑バージョンもあります。)
その三つのどのバージョンでも残剣は飛雪に刺されるという結果になります。
そう聞くとなんだか情けない設定だなあ。
残剣と飛雪は恋人同士なのですが、どのパターンも
愛するが故に飛雪が残剣を刺すという展開です。
剣の奥義を極めた男 残剣にしてはどうも情けない結果です。
特に最初の赤バージョンは情けない。
単なる痴話げんかの末に刺されるのだから。
剣の達人がそんなことで倒されるわけがない、
と秦王は見抜きます。
そこで「実は・・・」と語りだすのが青バージョンです。
そしてさらに白バージョンへと話は進んでいきますが、
語るにつれ、単なる闘いの話ではなくなってきます。

剣の達人にして書も極めた残剣は
剣と書に共通の、究極の境地にたどり着きます。

すべては空であると。

こうなると剣、書にとどまらず
仏教哲学の世界でございます。

残剣は憎しみや恨みの剣を超えて、
さらなる大きな境地へ到達したのでした。

真の剣の達人は剣を手に持たず、心にも持ちません。
そして無名もまた、残剣の心を受け継ぐのでした。


実にこの世においては、
怨みに報いるに怨みをもってしたならば、
ついに怨みの息(や)むことがない。
怨みをすててこそ息む。、

(『ブッダの真理のことば』第1章 5 
  中村 元訳 岩波文庫