かじさんのつれづれなるままに

映画や読書 スポーツ(相撲)についてぼちぼち書き込むブログです

『トゥルーマン ショー』

まるで活動を停止したかのようなブログでございます。
久しぶりに書いてみましょう。

本日は『トゥルーマン ショー』について。

他人の生活を見るのは面白いですか?

トゥルーマン ショー 
THE TRUMAN SHOW

98年 アメリ

(芸人ではない)素人の生活を24時間撮影して放送するという番組が
ヨーロッパのどこかの国で実際にあった、とおぼろげながら記憶しています。
その番組では出演者は何人かいて、視聴者による人気投票があり、
人気のなかった人が次々に降板していくという趣向だったようです。
全くの素人が、自分の生活を撮影されて番組にされるという点では
トゥルーマン ショー』と似ています。
でも違うのは、トゥルーマンは自分が撮影されていることを
全く知らないという点です。
ヨーロッパの番組の方は、出演者は「映される」ことを承知で出演していました。
でもトゥルーマンは何も知らないまま、自分の生活が世界中に暴露されています。
世界中が知っているのに、彼だけは知りません。

こんなひどい話ってあり?

それにしても、私には『トゥルーマン ショー』に熱中する視聴者が分かりません。
トゥルーマンの生活を一部始終(ある程度はカットして)見せるというのは、
一体何が面白いのでしょうか?
視聴者は何が面白くて見るのでしょうか?
人の生活を見るのがそんなに楽しいものでしょうか?
そりゃあ、トゥルーマンは個性的で見ていて面白い人物ですけれど、
そんなに熱狂して見るほどのものでしょうか?

なぜか視聴者は熱狂してしまう、
それは番組制作者がそういうふうに番組を演出しているからです。


番組制作者は、「ありのままの姿を見せる番組」を作ろうとしていたようですが、
トゥルーマン ショー』は「作り物」です。
父の水死や恋人との出会い、さらには妻も親友も、
番組製作者が決めて演出しているのです。
知らないのはトゥルーマンだけです。
いくらトゥルーマンは演技していないとはいえ、
この番組は「作り物」です。

そんな作り物のトゥルーマンの人生を視聴者は見ています。
ドッキリカメラより悪趣味ではありませんか?
初恋のシルビアを思い出すトゥルーマンを見て視聴者はじんときますが、
これだって番組制作者の演出です。
涙を流して感動するシーンも、すべて番組制作者の演出です。
それを分かっていて視聴者は泣いているのでしょうか?
少なくとも町の人たちはすべてが演出だと知っています。
演出だと知っていても涙を浮かべながら見るのです。

視聴者は感動ドラマを見たいのです。
演出されていると分かっていても、おそらく見たいのです。

トゥルーマン ショー』にくぎ付けになっている視聴者を私は奇妙だと感じますが、
何も彼らだけがテレビに毒されているわけではありません。
現代のテレビを見る人々もまた、テレビに毒されているようです。
トゥルーマン ショー』ほど凝った演出の番組はないでしょうが、
テレビ製作者の演出によって、私たちは簡単に「感動されられ」ます。
「オリンピックを目指すアスリートの一年間を追ったドキュメント」
とかなんとかいう番組を制作するとなると、演出の仕方次第で
すぐに「感動もの」に出来ます。

番組を作る方も作る方ですが、
見る方も見る方なんですね。


途中でトゥルーマンは自分の周りの異常さに気づき始め、
この作り物の世界から脱出しようと試みます。
視聴者は「トゥルーマンがんばれ!」と応援していますが、
彼らは『トゥルーマン ショー』が続いてほしいのか、
トゥルーマンが外の世界へ脱出して、番組が終わることを望んでいるのか
どちらなのでしょう?

結局、視聴者や町の人にとってはどちらだっていいのでしょうね。
テレビ番組さえ面白ければ、トゥルーマンの人生がどうなろうと。